掌編小説『砂上の光』- 沈み|shizumi 2021 Collection #2


砂上の光

『砂上の光』

甲斐は阿部の肩から包帯を丁寧に巻き取る。

「痛むか?」と甲斐が聞くと、阿部は首を振る。

甲斐の一日は、阿部の傷口の様子を確かめることから始まる。薬品はもちろん、清潔な布さえ手に入らないから、せめて傷口を確かめ、川までいって包帯を洗ってくる。傷の調子が悪い日は、一日中掌の中に阿部の血と膿の匂いがする。

「おまえが来てからだいぶマシになった」

阿部には左腕と右脚がなかった。なぜそうなったのか、甲斐が聞いても阿部は答えなかった。塹壕のすぐそばにある集落の連中が関与しているのは間違いない、と甲斐は思っていた。

「俺はこんな体だから、滅多に川までいけない。川の水で傷口を流すと、蛆どもが水の中で踊るんだ」

塹壕跡の天井に並べてある板を、甲斐は杖でずらして日の光を入れる。阿部が歩くときに使う杖だ。日に照らされた阿部の傷口に変化がないか確かめる。赤黒く固まりかけている血と歪んだ肉片。虫はいない。今日の傷口は安定している。

甲斐はもう一ヶ月近く男ふたりだけで壕の中で暮らしていることを不思議に思った。この灰色の荒野だけが続く世界で自分はまだ生きている。しかも手足を片方ずつもぎ取られた男の世話までしている。

「包帯を洗ってくる。このまま傷口を日に当てていろ」

阿部は一度頷いたが、右手で甲斐の頬に触れると、自分の胸に引き寄せようとする。甲斐は手を払い退けるが阿部はやめない。甲斐は短く息を吐いて、阿部のしたいようにさせた。

「俺はおまえがどこから来たか知らない。おまえも俺の昔のことは知らない」

阿部は、引き寄せた甲斐の頭に頬を押しつけながら話す。甲斐の後頭部が阿部の吐息で湿った。

「それでも俺たちはここで暮らしている」

甲斐はなぜ阿部が集落の外れの塹壕跡の中で暮らしているのか聞かなかったが、時々壕の外で出くわす集落の人間の話を聞いていると大方予想はついた。

「あんたか? 最近阿部の野郎の穴に転がり込んだのは。気をつけろよ、あんたたちみたいのはこの辺りでは碌な目に遭わない」

あんたたちみたいな者、が何を指しているのか、甲斐は最初わからなかった。壕に転がり込んで数日後、寝ているときに阿部の顔がすぐそばにあったとき、集落の連中の言うことを理解した。ひどく冷える夜だった。大きな温もりの塊が布団がわりのボロ切れの中に入り込んできて甲斐の体を包んだ。頭の中がふと軽くなった。甲斐は一度阿部の体を押しやったが、強い力でしがみつかれると、反射的に腹の底から怒りが沸き立ち、何故かわからないが、敗北するのは嫌だ、と阿部の体を組み敷いた。体の底から力が湧いてくるようだった。この世界を彷徨うようになって初めて感じる力だった。その後は女とするのと変わらなかった。阿部の傷口が開いたのか血の匂いがした。その匂いに甲斐の汗の匂いが混じった。果てた後、甲斐は鼻と口を拭いながら「くそったれが」と言った。阿部も体内に残った感触の中に、クソが、と零した。

「今日は包帯を洗わなくていい、ここにいてくれ」

「また蛆が湧くぞ」

「どうせ俺はいつか虫たちに食い殺される」

 甲斐は阿部の塹壕に転がり込んだ日、たった一度だけ、この世界について話したことを思い出す。阿部は怒ったように「俺もおまえと同じだよ、考えられることは全て考えた」と言った。

「確かなのは、俺はあの集落で上手くやれずに追い出され、今もここで生き延びてるってことだけだ」

同じ、か、と甲斐は思った。

本当に同じだろうか? ここは俺が暮らしていた世界とは全く別の異世界なのではないか。阿部にもかつて俺と同じような生活があったのだろうか。甲斐はあの日のことを思い返す。その日、古民家の厠で甲斐は用を足していた。甲斐は地方のタウン誌の編集の仕事をしていて、その古民家へは取材で訪れた。古民家をカフェに作り替えたよくある店の取材だった。離れの厠の、どこか場違いな洋式便器に座った数秒後だった。建物が大きく一度揺れたと思うと、視界は白い光に包まれ、頭上に巨大な衝撃を感じた。体の芯の部分に響く喚き声に耳を塞いだが、声はむしろ大きくなって、それが自分の声だと気づいた。続いて頭に直接一撃を受け、気を失った。目が覚めると灰色の世界に横たわっていた。甲斐は最初死後の世界へ来たのだと思った。それにしては体の感覚がはっきりしている。擦りむいた傷が風にあたって痛む。取材時に着ていた服はあちこち破れていたが、意識を失う前と同じものだった。薄靄に包まれた空からは様々な角度から光が差していた。いつか夢で見た景色に似ている、と甲斐は思った。

一日、二日は色々考えた。この世界に何があったのか。自分以外の人間はどこへ消えてしまったのか。去年籍を入れたばかりの妻は? 小さいがやっと軌道に乗り始めた雑誌の仕事、その仲間たちは? ミサイル実験ばかりしている隣国の独裁者の仕業か? 原子力発電所の事故……? 次第にただ歩くだけになった。世界はどこまで歩いても灰色の砂だった。昼、体は太陽に焼かれ、夜は寒さで軋んだ。空腹は痛みとなり、突然明晰になる意識に怯えた。死にたくなるからだ。やっと見つけた集落は使い古された排水溝のようなひどい匂いが立ち込めていたが、甲斐は懐かしさを覚えた。人が暮らしている匂いだった。テントに入り込み、壺の中に蓄えてあった芋を夢中で頬張っているとき、背中を何かで殴られた。人だ、と甲斐は思った。振り返ると小太りの中年の女が太い木の棒を握り締めて立っている。ひどく臭う女だった。甲斐は中年の女に駆け寄り、叫びたかった。あんたは誰だ? ここはどこだ? 食料はどこから? 水は? 他に人間はいるのか? この世界はどうなってしまったんだ? 東京は? 電話はあるか? 今何時だ? だが甲斐は何も言葉にすることができなかった。女の目には怯えと憎しみしかなかったからだ。甲斐はこんな目をする人間を見たことがなかった。咄嗟に芋をいくつか取って集落を逃げ出した。涙が溢れた。

「今朝、これが投げ込まれた」

阿部は、汚れた上着の内ポケットから雑に折り畳まれた紙を引き抜くと甲斐の顔の前に差し出す。甲斐はそれを受け取って目を通した。集落の拡張を行うので、この塹壕を埋めるから三日以内に立ち退け、という内容だった。三日後には火を投げ入れる、と。

「拡張というのは嘘だな。奴らは俺が気に食わないのさ」

「気に食わない?」

「俺は男が好いってわけじゃない」

「俺もだ」

甲斐がはっきりそう言うと、阿部は睨みつけるようにして甲斐を見る。

「あいつらは自分と違ったものが許せない、ただそれだけだ」

それから一日、甲斐は阿部が杖を使って長距離を移動できるよう、壕の中での歩行訓練を手伝った。阿部が蓄えていた食料を持っていけるよう服を割いた布で包んだ。集落の周りをうろつき、水を入れて運べそうなものを探した。小さな瓶がいくつか見つかった。空は灰色だった。雲が厚くなると空は墨を滲ませた一枚の布のようになった。壕に戻り、疲れ切って横たわった。明け方、意識が朦朧とする中で甲斐は阿部の訴えるような視線を何度も感じた。阿部の言いたいことは痛いほどよくわかった。だがそれを受け入れるわけにはいかない。必ずふたりで生き延びる、と甲斐は思った。

日が真上にあがる頃だった。杖を置いて座り込んだ阿部が口を開いた。

「なあ甲斐、腕が痒いんだ」

甲斐は阿部の傷口を確かめる。小さな蛆が一匹、蠢いている。

「すぐに傷を洗おう。これから川に行って水を取ってくる」

甲斐が壕を出ようとしたときだった。壕の入口に人の気配がした。

「阿部! いるか、出て来てもらおう」

集落の見張り役だろう、壕の周りをよくうろついている痩せた男の声だった。約束の日にはまだ一日早い。甲斐は入口に向かって叫ぶ。

「まだあと一日あるはずだ!」

「悪いが早まったんだ、出てきてくれ」

「阿部の傷口を洗いたい、集落で水を貸してもらえないか」

「それはできない」

「だったら約束通りもう一日待ってくれ」

「長に言われてる。俺は今日ここを始末しないと戻れない」

まるで便所でも借りにきたかのように軽い調子で男は言う。甲斐は全身に力が入るのを抑え切れず、入り口へ向かおうとした。

阿部が甲斐の肩に手を置く。

「もういい」

阿部は壕の端まで杖を使って行くと、薄汚れた雑嚢を持ってきた。右手と口を使って袋を開け、中から一枚の服を取り出す。

「甲斐、これを持って南へ迎え、港まで辿り着ければ船に乗れる」

「船?」

「この国では、もう一部の人間しか長距離移動を許されていない。これは軍で支給される服だ。肩にあった階級章は全て落ちてしまったが、船に乗ることぐらいはできるかもしれない」

「おまえはどうする?」

「傷口をこのままにして南に向かっても……」

阿部は傷口の蛆を顎で指す。蛆の蠢く音がする。

「こいつらに食われて終わりだ。俺はここに残る」

「残る? 何を言ってる? 待て、考える、何か方法が……」

「なぁ甲斐、俺たちの細胞ってのは基本的に分裂し続けて常に新しくなっている。なのにある日突然分裂する回数が減り始める。理論上は無限に分裂し続けることができるはずなのに」

「………」

「つまり俺たち生物は、種をつなぐために死がプログラムされている」

「……何が言いたい?」

 阿部は、甲斐の頬に手を伸ばして唇の端を上げると「さあな」と言った。

「早く行け、時間が進めば進むほど、行きにくくなる」

甲斐は渡された服に袖を通す。トレンチコートだ。

「似合うよ」

甲斐は体が崩れそうになるのに耐えながら、阿部の傷口が見える位置に立った。さっきよりも増えている蛆を、甲斐は震える指で摘んで地面に放った。壕の中に溜まった砂の上で蛆たちは威勢がよかった。踊る蛆たちの横に甲斐の汗が滴り、砂に染みた。

甲斐は塹壕の入り口から外へ出る。一度も振り返らない。塹壕の入り口に、ガソリンの入った缶を持って男が立っている。

「あんただけか? 阿部は?」

甲斐はじっと男の顔を見る。男はやや気圧されたように体を引いたが、頭を大きく振ると塹壕の中にガソリンを撒き、火のついた木片を投げ入れた。男は何も言わずに立ち去る。

甲斐は男が去った方角とは真逆へ向かう。日が沈みかけている。冷える。甲斐はコートの襟を立てて「クソったれ」と呟く。

背後で渦巻く炎が、荒野の砂を巻き上げている。

甲斐は南へ向かう。冷たい風が吹いてコートの襟が頬に張りついた。

 

作者あとがき

「不条理の中で生き抜く服」というテーマのもと、2021 Collection #2 に「ALIVE」というタイトルをつけたとき、頭に浮かんだのは僕たち兄弟が生まれた沖縄の風景だった。
明るく美しくもどこか物悲しい旋律の沖縄民謡とともに、幼い頃聞いたひめゆり学徒隊の話を思い出した。
テーマが見えてくると服が次々と生まれ、小さな物語も生まれた。
服と共に、この物語も楽しんでくれると幸いです。

沈み|shizumi 伊豆味 大作