掌編小説『蛾と蝶』- 沈み|shizumi 2021 Collection #1


蛾と蝶

『蛾と蝶』

彼の兄は博学で才能もあり、世間からとても期待されていた科学者だった。

日本の環境開発の基地となった北海道で、食料危機対策のプロジェクトに彼の兄は携わっていた。しかし志半ばで兄は仕事を辞めた。兄の組織の重役たちは政府の高官と密通していて、賄賂をもらい、己の懐ばかりをあたためていた。実直過ぎる兄が耐えられるはずはなかった。兄は北海道の仕事部屋で蛾の標本を作りはじめ、全く仕事をしなくなった。兄は小さい頃から蛾が好きだった。周りの者たちは気味悪がった。当然仕事を辞めることになった。兄はその時二十七歳だった。

兄はそれから山形のとある山奥に移り、蛾の標本を作りながら、ひたすらヴィオラを弾くようになった。兄は高校で土の中のバクテリアの働きにのめり込むまで、二歳からずっとヴィオラを弾き続けていたので相当の腕前だった。土の中の生命の、小さくも確かな囁きを事細かくノートに書き記していくように、自然の音をヴィオラの旋律にのせて奏でられないか、彼の兄は小さな山小屋の中で思索に耽り、時々、ノートパソコンを開いて自身の演奏を録音した。本人もよく理解していなかったが、後世にこれを残さなければ、という意志に彼の兄は取り憑かれていた。

しかし、一向に理想の旋律は降りて来なかった。貯めてあった金も底をついた。兄は焦躁に駆られた。初めて感じる感情だった。この頃から兄の体の肉は落ち、骨張って、ただただ眼光だけが鋭く、かつての俊才、美少年の面影はどこにもなくなってしまった。

数年後、兄は貧しさという強烈な暴力を味わった。空腹は激痛であり、孤独は厳寒だと知った。耐えられなくなった兄は、毎晩ひたすら泣いた。ついに旋律を追い求めることを諦め、再び街へ戻った。

兄は金を得るために小さな会社で職を得た。かつて自分より能力の低い人間のことを、兄は鈍物として歯牙にもかけなかった。向上心も持たず、毎日携帯端末で受動的な映像を見続け、アルコールで問題をうやむやにする者たちを愚物だと見下していた。その連中の下で働かなければならないことが、兄の自尊心を傷つけた。兄はいよいよ抑えられなくなった。一年後、出張で訪れた琵琶湖の畔のホテルで、ついに発狂した。

その夜、彼の兄は急に顔色を変えてベッドから起きると、訳の分らないことを叫びながら、そのままホテルのロビーを駆け抜け、深夜二時の湖の闇の奥へと消えていった。捜索隊が編成され、湖や近くの山野を捜したが何の手掛りもなかった。兄がその後どうなったかを知る人は誰もいなかった。

 

それから三年が過ぎた。兄のこともだいぶ落ち着いた頃だった。彼は琵琶湖のホテルを訪れた。変わり者の兄が最後に見た光景を、自分の目で見ておきたいと思ったからだった。

早朝、彼は目が覚めた。まだ夜明け前だ。なぜか目が冴えて再び眠りにつくのは難しそうだった。付近を散歩しようとロビーへ降りる。早朝にも関わらず、正装したホテルマンが、近づいてきた。

「お客様、お散歩ですか?」

「少し湖畔を歩こうかと」

彼はホテルマンの顔を観察した。若い男だった。兄が発狂して駆けていく姿をこの男は見ているのだろうか、と彼は思った。

「お気をつけて、最近変な事件が続いているので」

ニュースで見た一連の事件のことだろう。顔面を強酸性の液体で溶かされた変死体が琵琶湖の畔で三体見つかった。そのニュースを聞いたとき、どこかで彼は兄のことを考えていた。その奇妙な予感のようなものに導かれて、琵琶湖の畔までやってきたのかもしれない。

青白い月の光をたよりに湖畔の道を彼は歩いた。

微かに弦楽器の旋律のようなものが聞こえた気がした。

彼が振り返ると外灯の下に何者かが立っている。

一瞬、彼は長い枯れ枝がどっと倒れてくるのかと思った。が、それは人だった。黒ずんだ枯れ枝のような男が、彼に襲い掛かろうとした。だが男はすぐに身を飜えし、外灯の後ろに隠れる。薄灯の中から、あぶなかった、と呟くのが聞こえた。

その声には聞き憶えがあった。驚きの中で、彼はとっさに叫んだ。

「兄さん」

外灯の裏からは、しばらく返事がなかった。微かに泣く声が聞こえた。しばらくして低い声が答える。

「すまない……」

彼は恐怖を忘れ、懐かしい気持ちになり、外灯へ近づこうとした。すると兄の声が答える。

「来るな。俺はもう……」

雲間から差した月明かりが、外灯の後ろをほんの少し明るくした。彼は動けなかった。そこにいたのは確かに兄だった。しかし顔中に毛が生えている。見開いた眼は黄色い。手足は異様に長く、腹は醜く膨らんでいる。兄の後ろで何かが蠢いた。兄の他に誰かいるのかと彼は思ったが、それは茶色くて乾いた塊だった。羽。醜い斑模様。兄は窄めた口先から粘液のようなものを垂らしている。粘液が音を立てて兄の足元の草を溶かした。

虫だった。

そこにいるのはかろうじて人間の片鱗をとどめた巨大な蛾だった。

「ほんの少しでいい、話をしてくれないか。何でもいい、人間と話がしたいんだ」

後で考えれば不思議だったが、その時、彼はこの不気味な出来事を素直に受け入れることができた。

彼は両親のこと、自分の家族のこと、北海道の開発のその後のことなど、昔、よく兄と話をしたときと同じように喋った。親密な時間が流れた。そしてその後、兄がなぜ今の姿となったかを尋ねた。薄灯の中の醜い兄は淡々と話しはじめる。

「今から三年前、出張で琵琶湖の畔に泊まった夜、一睡してからふと眼を覚ますと、外で誰かが自分の名前を呼んでいた。声に応じて外へ出ると、声が湖の闇の奥から自分を招く。よく考えもせず、俺は声を追って走り出した。無我夢中で駆けていく中で、いつしか湖畔の林に入り込んだ。すると体がふっと宙に浮く。知らない間に自分の体が異様に軽くなった。それでいて何か体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と木々の上を飛ぶことができた。

自由だ、と思った。

ところが気が付くと身体中に産毛が生え、皮膚が乾いて硬くなっている。口が上手く閉まらなくなり、涎が延々と垂れる。少し明るくなってから、湖に自分の姿を映してみて俺は凍りついた。映っていたのは巨大な蛾だ。もちろん最初は信じられなかった。これは夢だと考えた。だがどうしても夢ではないと認めざるを得なかった。俺はいつまで経っても一匹の巨大な蛾だった。

俺は蛾になった、と初めて心で呟いてみたときのことを今でも鮮明に覚えている。茫然とした。そして、おそれた。人生というものを。この巨大な虚無のような人生では、どんなことでも起こり得るのだ、と。

しかし何故こんなことになったんだかわからない。全く人間には何もわからない。理由もわからずに押付けられたものを大人しく受け取り、ただただ生きていくのが人間なんだ、と俺は思った。俺はすぐに死のうと思った。しかしその時、眼の前を一匹の野良猫が駆けていくのを見た。途端に自分の中の人間は姿を消し、再び俺の中の人間が目を覚ました時、俺の口は野良猫の血に塗れ、あたりには顔を溶かされ、腹を裂かれた猫の残骸が散らばっていた。これが蛾としての最初の経験だった。それ以来今までにどんなことをやり続けて来たのか、それを語るのはとてもおそろしい。ただ、一日の中に必ず数時間は人間の心が還ってくる。そういう時には、かつて人間だった日々と同じように話をすることができるし、複雑な思考をすることもできる。昔よく弾いたヴィオラの旋律を思い出すこともできる。その人間の心で、巨大な蛾としての自分の残虐な行為をみて、己の運命をふりかえる時が最も情なくおそろしい。だが、その人間にかえる数時間も、日が経つに従って次第に短くなっている。今までは、どうして蛾などになったのかと考え悩んでいたのに、この間ふと気が付くと、俺はどうして以前人間だったのだろうかと考えていた。これはおそろしいことだ。もう少し時間が経てば、俺の中の人間の心は虫としての習慣にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。ちょうど忘れ去られた誰かの墓が、次第に土砂に埋もれて見えなくなるように。そうすれば、しまいに俺は自分の過去を忘れ、一匹の蛾として狂い飛び、今日のようにお前と出会っても弟と認めることなく、お前をこの手足で押さえつけて粘液で皮膚を溶かした後、腹を裂き、体液を吸って何の悔いも感じなくなってしまうだろう」

「なぁ、虫でも人間でも、もとは何か他のものだったんだと俺は思うんだ。初めはそれを憶えているが、次第に忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるだけだと思わないか? いや、そんなことはどうでもいい。俺の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、おそらく、その方が、俺はしあわせになれるんだと思う。だがそれでも俺の中の人間はそのことをこの上なくおそれている。一方でどんなに、哀しくもそれを望んでいることだろう! 俺が人間だった記憶のなくなることを。これは誰にもわからない。きっと俺と同じ経験をした者でなければ。ところで、そうだ。俺がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある」

彼はそこまで聞いて息を呑んだ。兄でない者がそこにいると感じた。声は続けて言う。

「俺は山の中で本当に美しいものを目指してヴィオラを弾き続けた。食糧危機の研究も同じだった。わかるだろうか。土壌の化学物質のバランスがぴったり取れた時の静けさ、あの美しさ。どうしてもそれを世の中の人々に伝えたかった。その美しさが俺たち人類を救うということを。だがそれは叶わなかった。それを邪魔する愚かな人間たちがそれを阻んだ。それでもなお、俺は諦めることができなかった。だからせめてヴィオラの旋律にそれを込められないかどうか試した。どうかこの旋律をせめてお前だけには伝えたい」

彼の兄は、木の枝がいくつか組み合わされた奇妙なオブジェのようなものを取り出した。それを顎にあて、オブジェに張られた糸の上に自身の細長い右手を合わせる。彼はかつて兄がタキシードを着て、舞台上でヴィオラを弾いている姿を思い出した。兄は巨大な蛾になってしまった。あの奇妙なオブジェは兄がヴィオラに似せて作ったものだろう。微かに乾いた音を立てている。それは到底楽器の音とは呼べるものではない。兄はその楽器を懸命に弾き続けている。美しいだろう? と言わんばかりに。彼の頬を涙が伝った。兄はもう還らない、と彼は確信した。

月明かりが冷ややかに辺りを照らす。夜明けが近かった。

兄は満足したのか楽器のようなものを地面に下ろす。

「何故こんなことになったのかわからないと、さっきは言ったが、考えようによっては、思い当ることが全くないでもない。人間だった時、俺は努めて人との交じわりを避けた。人々は俺を神童だ、偉大だと褒めそやしたが実は、それが、ほとんど俺の羞恥心に近いものを隠すための反動であることに人々は気がつかなかった。もちろん、褒められた俺自身に自尊心がなかったとはいわない。しかし、それは臆病な自尊心だった。俺は研究によって名を成そうと思いながら、進んでそれを極める道を選ばなかった。企業に入った。かといって、俺は俗物の中でそこに染まることも良しとしなかった。俺の臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいだろう。俺の考えに非があることをおそれるがゆえに、あえて苦労してそれを磨こうともせず、また、俺の考えの正しさを中途半端に信じるが故に、俗的な考えを受け入れることができなかった。俺は次第に世と離れ、人と遠ざかり、世への怨念の塊となり、己の内なる臆病な自尊心を飼い太らせる結果になった。人間は誰でも腹の中に虫を飼っており、その虫に当たるのが、それぞれの本来の姿なのではないだろうか。俺の場合、この尊大な羞恥心が巨大で醜い一匹の蛾。これが俺を損ない、果ては俺の姿をこんな風に内心にふさわしいものに変えてしまったんだろう。今思えば全く俺は、俺のもっていたわずかばかりの才能を空費してしまったわけだ。俺よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを磨いたがために、堂々たる美しさを世に問うことのできた者たちがいくらでもいる。巨大な蛾と成り果てた今、俺はようやくそれに気が付いた。それを思うと俺は今も胸を灼かれるような悔いを感じる。俺にはもう人間としての生活は送れない。たとえ、今、俺が頭の中でどんな優れた旋律を作ったところで、どうやって世に問うことができる? まして俺の頭は日毎に虫に近づいていく。どうすればいい。俺の空費された過去は? 俺はたまらなくなる。そういう時、俺は、向うの山の頂にある岩に止まり、羽を思い切り広げる。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいんだ。俺は昨日の夕方も、あそこで月に向かって羽ばたいた。誰かにこの苦しみがわかってもらえないかと。しかし、山の獣や虫どもは俺の声を聞いて、ただただ、おそれ、ひれ伏すばかりだ。山も樹も月も露も、人間でもなく蛾でもない奇妙な生物が怒り狂っていると思っているのだろう。誰一人俺の気持をわかってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、俺の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように」

しばらくするとあたりの暗さが薄らいできた。木の間を伝ってどこからか太陽の光が哀しげに差しはじめた。

弟よ。そろそろお別れだ、蛾の思考に支配される時間が近づいたから、と兄の声が言った。

「だが、別れる前にもう一つだけ頼みがある。お前以外の人間に今日起きたことを話さないで欲しい。お前は強い男だが、両親も、そして他の人間たちもそうではない」

言い終り、外灯の後ろからガサガサと音が聞こえた。彼は涙を浮かべ、約束する、と兄に答えた。兄の声が自嘲的な調子になって続ける。

「本当は、まず、このことを頼むべきだった。残された人間たちのことを考えるよりも、己の乏しい理想を気にかけているような男だから、こんな姿に身を堕とした」

兄は自分の身体を見る。

「そうだ。二度とここへ来るなよ。次に会う時、俺はすっかり蛾の化け物になっていてお前に襲いかかるかも知れない」

「兄さんに限ってそんなことは……」

「帰りに、そこの大通りまで戻ったら、もう一度この外灯のあたりを見てくれ。俺の醜い姿の全貌をお前に見せよう。そうしたらお前はきっと二度と会いにこようとは思わないだろうから」

そう言うと兄は叢に入った。彼は、兄さん、と呼びかけた。返事はない。彼は何度も兄のいたあたりを探したがもう姿は見えなかった。

彼は泣きながら大通りまで歩いて戻り、兄に言われた通りに振り返ろうとした。だが彼は躊躇した。巨大な蛾と成り果てた兄の姿の全貌を見るのが怖かった。先程まで感じていた兄への親密さが消え果ててしまうのではないか、と思った。

「弟よ」

兄の声が聞こえた。

彼は振り返る。

すると一匹の小さな蛾が、草の茂みから道の上にゆらゆらと現れた。彼は、その軌道を目で追う。蛾の羽は瑠璃色に輝いていた。まだ仄暗い朝の光の中で、その小さな蛾は蝶のように美しかった。

 

作者あとがき

画家TANAKA AZUSAさんからテキスタイル用の原画をいただき、そこに描かれている蝶への想いと、絵から感じるエネルギーを元に、デザイナー伊豆味俊が愛してやまない変身譚、中島敦の「山月記」を下敷きとし、コンセプトとなる物語を打ち立てられないかと試みました。

完成した服、展示会の空間、端々に物語の断片を感じてくれれば幸いです。

沈み|shizumi 伊豆味 大作