掌編小説『地下のスポール』- 沈み|shizumi 2023 AW


地下のスポール

『地下のスポール』

 

そろそろ鎌田から連絡が来るはずだ。

俺はジーンズのポケットからスマホを取り出して画面を確認する。まだ来ていない。スマホの淡い光が地下道の壁を照らして、そこに俺の影が長く映る。

地下鉄××線××駅と××駅の間。

巨大商業ビルが立ち並ぶ繁華街のちょうど真下にある地下鉄の廃駅。

なぜこんなところに行き着いたのだろう、と俺は自分で取り付けたプラスチック製の小さなタンクを眺めながら思う。馬鹿げている。

五年……。初めて鎌田に声を掛けられてからちょうど五年だ。

「そこにあるコーラの缶を少しだけ左にずらしてくれないか」

鎌田は大学の講堂の古びた長椅子に座るなり、無表情にそう言った。俺が怪訝な顔をすると、早く早く、と言うように顎を短く突き出す。俺が長机の上のコーラの缶を動かすと蒲田はぐっと俺の方へ身を寄せてきて、

「少しだけ、世界が変わった」

と言った。

あまりの唐突さに俺が噴き出すと、鎌田は俺よりもさらに大声で笑う。一頻り笑った後、鎌田は蛇みたいな顔をして、笑うな、と言った。

地下はアホみたいに寒い。

俺は着てきた薄手のMA–1の襟元を両手でつかんで首元に寄せた。さっきまで居た焼鳥屋の煙の匂いがして、胃のなかでビールの冷たさが蘇る。俺は尿意を催してスマホのライトを頼りにホームの柱までいき、勢いよく放った。

鎌田は俺の通う大学の学生ではなかった。高校を中退し、鎌田の言う「支援者」という連中から少しの金をもらい、ネット上の空のSNSアカウントを集めて売りさばいたり、小さな鉄の板を最新の健康器具だと偽って売るためのネットワークを拡げたりしていた。毎日忙しそうだった。訳の分からない仕事ばかりだったが、かなり稼いでいることは身につけているものでわかった。

田舎から出て来た大学生が一番いい、と鎌田は言う。

「田舎から来た連中には、中途半端に夢がある。だから、面白いほどひっかかる」

八王子は? と通っていた大学のある街(俺が生まれた街でもある)を出すと、

「八王子は都会だよ」

と鎌田は笑った。

鎌田は笑う時、唇の片側が独特の歪み方をする。それ以外はほとんど顔のパーツが動かない。一週間前、この装置を引き渡された時も同じように鎌田は笑った。

「明るいテロがあってもいいだろ?」

かなり羽振りがいいらしい。事務所のソファで高そうなウイスキーを飲みながら計画について語り出した。俺はめったに口にできない輸入物の鮭の燻製や高級ワインを口に運びながら話半分で聞いていた。

「まずは華やかにやろう」

大学を出て、就活まできちんとやった俺が低賃金の奴隷みたいな暮らしをしていて、高卒の鎌田は赤坂のマンションを借りてこんな立派な事務所を構えて暮らしている。そんな鎌田がわざわざ昔の活動のようなことをするとは思えない。

「金がないんだろ?」

鎌田の提案した額は、俺の働く飲食店チェーンの給料の三倍以上の額だった。

「本気じゃないだろ?」

「もちろん、こんなことしたってなんにもならない」

「じゃあなんで」

「少しでも世界を変えるんだよ」

鎌田は俺の顔を見たあと、グラスに残ったウイスキーを一気に飲み干し、乱暴にコースターの上に置いた。グラスは僅かにコースターからズレた。つまらない、と言いたげな仕草で鎌田は分厚い封筒を俺の前に投げた。

 バカでかい公衆便所だ。

 俺は小便を捻り出した後、声に出してそう言ってみる。暗闇の中に自分の声が思ったよりも反響し、身を震わせる。

電話が鳴る。鎌田からだ。俺はスマホの画面を表示させ、応答するために画面をスライドさせる。

「どうだ?」

「取り付けたよ」

「そうか」

本当にくだらない計画だった。

タンクには空気に触れると気化して短時間でかなりの広範囲に拡がる薬品が入っていた。鎌田が地方の小さな薬品会社に用意させたものだ。鎌田はそれを『綿毛』と呼んだ。その液体が気化すると若干の刺激臭と共にラベンダーの香りが拡がる。ただし公衆便所の消臭剤みたいなとびきり安っぽい匂いだ。翌日のニュースくらいにはなるだろう、と鎌田は言って、ウイスキーのグラスを人差し指の爪先で叩いた。

「お前がいるところは、ちょうど秋葉原の繁華街の下だ。深夜だが、まだ人がいるだろう」

「もらった金で焼き鳥を食った」

「そうか、うまかったか?」

「まずまずだった」

 車両基地に向かう列車がまだあるのだろうか、遠くで走行音が聞こえる。生ぬるい風が顔に吹き上げてくる。

「タンクの裏に窪みがあるだろう、それを押してくれ、こちらからの電波で起動させる」

俺は言われた通り、空気穴の入り口に取り付けたタンクのところまで戻り、窪みを押した。なんの躊躇いもなかった。素敵な匂いをばら撒く『綿毛』の起動装置……、か。

「よし」

鎌田は電話の向こうで誰かと話をしているようだったが、よく聞こえない。

「なぁ」

「なんだ」

「俺は知ってるよ、鎌田」

「何を?」

「これは『綿毛』なんかじゃない」

「………」

「これは『胞子』だ。人間には有毒のな」

 鎌田が揉めている田舎の大地主が、ちょうどこの上のビルのクラブの常連だというところまで調べたら、あとは一気に繋がった。

「今、空気穴の出口は仮のパイプでビルの排気口と繋がっていて、こいつが店の中に入るようになってる。で、俺がここでこの毒を吸って死んだあと、そのパイプは取り払われる。俺が起こしたことは、よくあるつまらない無差別殺人として処理される」

「………」

「その店で、その男が死んだら、鎌田、おまえ、いくら儲かるんだ?」

「儲かりはしない。いくらか守られる」

「守られる?」

「ゆすられてる」

ホームの方から、分厚い鉄板が軋むような音が響いてくる。

「おまえは守る。俺は壊す」

 声はしなかったが電話の向こうで鎌田が笑うのがわかった。

「俺は感謝してるんだよ、鎌田。最期にそこそこ旨い焼鳥が食えたし」

鎌田は無言だが、きっと蛇みたいな顔で笑っている。列車の走り出す音が地下に響く。壊れた管楽器の音みたいだ。

「鎌田、俺は田舎者なんだよ」

喉の奥に、無数の細かい針が刺し込まれるような痛みを感じる。

暗闇の底が一気に白くなった。

 

作者あとがき

地下でひっそりとエネルギーを溜めていたものたちが、地上の古びた巨大都市の崩壊をじっと待っているーーー

そんなイメージから、陽のあたらぬ場所で生きる菌類を連想し、抑圧された感情もまた同じように菌糸を伸ばし、胞子(スポール)を放出する時を待っているのだと感じました。そして、その時は近い、と。

解放の時を表現したMA-1「胞子」を軸につくりあげた2023AW「地下のスポール」の世界をお楽しみ下さい。

沈み|shizumi 伊豆味 大作